多磨村暮らしの想い

 このサイトに登場する“多磨村”とは、およそ60年前まで当地に実在した村の名前である。いわゆる「昭和の大合併」で自治体の名としては使われなくなったが、東京都府中市の東部一帯を指す名として、もう一度スポットライトを当ててみたい。

 武蔵野台地と多摩川が出会うこの地には、豊かな自然がそこかしこに残り、移ろいゆく四季を身近に感じることができる。そこで、この“まち”の魅力を存分に味わって過ごす日々を「多磨村暮らし」と名づけてみた。

 住人となってまだ日は浅いが、さまざまな視点で掘り下げて知れば知るほど、多磨村はさまざまな一面を持っていることがわかる。縁あって暮らすことになったこの地の魅力を、私なりの形で発信してみたいと考えている。

都心から西へ20km

都立武蔵野公園
都立武蔵野公園

 東京の都心から電車でわずか30分ほど。近くもなく、遠くもないところに“多磨村”はある。

 平成21年(2009)の春、私はその地に移り住んだ。直接のきっかけは転勤だったが、その後、結婚と長男誕生を経て、そこに長く住んでみようと決めた。

 何といっても存在感を放つのは、大正12年(1923)に開設された日本初の公園墓地「多磨霊園」(開設当時の名称は「多磨墓地」)である。実は、我が家の墓所はこの多磨霊園にあるので、ここに暮らす前から、たびたび“多磨村”を訪れる機会があった。したがって、これまでまったく暮らしたことのなかった多摩地域のなかでも、特にこのあたりに一定の土地勘があったのは不思議な縁というほかない。

豊かな自然と移ろいゆく四季を味わう

 府中、小金井、三鷹、調布の4市が境をなす“多磨村”の北端には、大昔の多摩川が形づくったという段丘崖が横たわり、その一帯に貴重な自然が息づいている。特に、浅間山(府中市)から多磨霊園、武蔵野公園、野川公園、国立天文台を通って深大寺(調布市)に至る東西5kmほどの帯状の地域は、まるで大きな森のような雰囲気を漂わせている。そして、つぶさに探せば、現代に生き永らえる武蔵野の原風景を見つけることもできる。この恵まれた環境が、都会では味わうことが難しくなった四季の移ろいを、よりいっそう際立たせてくれているのだ。

浅間山(標高79.6m)
浅間山(標高79.6m)

 例えば、暖かい春の夜に雨が降ると、翌朝にはもやが出て、土、水、木々の息づかいを肌で感じることができる。もっと郊外へ行けばよくある現象だろうが、一般的な都会暮らしではなかなかお目にかかれない。関東平野のからっ風と土の匂いを幼少期に刷り込まれた私は、自然の営みを身近に感じられる光景が、日々の暮らしのすぐそばにあることを幸せに思っている。

親しみを込めて、昔の名前で呼んでみる

 人文地理的視点から“多磨村”をとらえると、さまざまな場面で多摩川とのかかわりが深いことに気づかされる。また、甲州街道、人見街道といった昔からの主要道路が縦横に通っているほか、近傍の鉄道網も古くから発達している。多磨霊園の計画決定にあたっては、当時稀に見る交通の便の良さが決め手となったという。

 このほか周辺には、調布飛行場、航空自衛隊府中基地、警視庁府中運転免許試験場、国立天文台、東京外国語大学、ASIJ(アメリカンスクール・イン・ジャパン)、味の素スタジアムなどさまざまな施設が立地する。この多様性も大きな魅力といえるだろう。

美味しい地元野菜も魅力
美味しい地元野菜も魅力

 ところで、実際に「北多摩郡多磨村」という自治体があったのは、明治22年(1889)から昭和29年(1954)までの65年間のことだ。府中町、西府村と合併の末、府中市の一部となったのは、すでに半世紀以上も昔のことである。

 しかし、この地で暮らしていると、その生活圏は昔の“多磨村”の範囲に重なり、加えて周辺の各市にもまたがる独特なものであることに気づく。行政単位の府中市とは明らかに異なっているのだ。

 だからこそ、我が家ではあえてこの地を“多磨村”と昔の名前で呼び、地域をさまざまな視点で読み解きながら、じっくりと愛着を深めていくことにした。